40代からの人生設計悩んでます

40代になっても人生が全くわからずに生きてます

休みの日にやりたいことはないが休みたい

三連休の2日目です。

 

連休だからって何をするわけでもないし、休みだからって楽しみにしてることが特別にあるわけでもないですが、休みはうれしい。

社会人には土日はとても貴重な「寝坊が許される日」です。

 

休みがうれしいのは小学生の頃からだと思いますが、大学時代は特に土日だからって楽しみにしているってわけでもなかったような気がします。

平日との変化があってこその休日なんだろうなー。

 

何もしないでだらだら過ごせないという人がたまにいますが、私は逆です。

だらだら過ごしていいなら結構ずっとだらだらしていられます。

何もしないでいることが時間を無駄にしているような気分で落ち着かないんだと思うんですが、だらだら過ごすってすごく贅沢な時間の使い方だと思うんで、ずっとだらだらしてられます。

 

でも、時間を無駄にしちゃいけないって思ってる人のほうが大成はすると思います。

分刻みで決めたスケジュールに従って努力できる人のほうが成功するに決まってる。

 

ただ、私はそのタイプじゃないんで、だらだらを満喫しながら、できるだけだらだらできる時間を確保できるよう生きていこうと思います。

 

夜型人間なのは変えられない

私は夜型人間で遅寝遅起きである。

 

その昔、受験生時代は、「受験は朝型が有利」なんて言われていた。だから、朝型になることも考えたけど、夜型人間が一時的にでも朝型になるなんて難易度が高すぎて、そんなこと頑張るより普通に夜勉強したほうが効率的だなと思って朝型を目指すのはやめた。

 

寝てる時間は一瞬に感じるので、眠りに落ちた瞬間から目が覚めた瞬間の未来の時点にタイムスリップしたかのように感じる。平日は、寝て明日が来たら仕事に行かなきゃいけないので、それを先延ばししたくて余計に夜更かししてしまう。

でも、翌日が休みでも夜更かししている。せっかく明日休みだしと思って、いつも以上に夜更かししている。

 

朝はギリギリまで寝ている。夜更かししているから起きられないのもあるけど、仕事に行きたくないので、起きて準備するのがいやなのである。

でも、休みの日の朝も寝ている。二度寝三度寝でうとうとしているのが好きだから。

 

ということで、夜更かしして朝はなかなか起きないという「ダラダラ夜型人間」である。

 

朝にウォーキングしたりジョギングしたり、優雅にコーヒー飲んだり・・・と朝活へのあこがれもあるけど、夜型人間にはというか私には無理である。

 

 

風呂もシャワーも重労働

風呂に入るのは面倒。

私は湯舟につかるのはほぼ週1回。

 

毎日シャワーも浴びず、入浴もせず、寝てしまう。

朝になったらシャワーを浴びて、なんとか仕事に行っている。

気分が乗らない日は朝のシャワーさえ省略してしまうこともたまにある。

 

それでも、職場の人には朝シャワーを浴びているから気づかれていないと思う、こんなにだらけた生活を送っていることは。

 

帰ってきてシャワーも浴びずに寝るなんて信じられないって人もいるらしいですが、気力を失った私には入浴もシャワーももはや重労働。

数年前にうつ状態になったときは、数日に1度のシャワーで済ませてなんとか仕事に行っていました。(コロナ禍だったのでみんなマスクしててよかった。)

 

そんな私が今日は湯舟につかりました。

なんとなくの気分で。

いやー偉い!風呂に入って偉い!

風呂に入るだけで自分のことをほめたくなる。

人生の折り返し

40代も中盤に突入すると、人生の折り返しを意識しだした。

 

祖父母は亡くなり、両親は健在だけど頼りなさが増して心配になってきた。

親もいつかは亡くなるし、そして自分も亡くなるんだと年々現実感が出てきた。

すると、私はこのまま後半を過ごしていていいのかと悩みだす。

 

実家の片づけが必要な気がする。

物を減らさない限り、片付けるなんて到底無理だと思うけど、あれだけの物を減らすというのも到底無理に思える。

そして、私は自分の人生ですら無気力になっているのに、片づけにそんなに精力的になるわけがない。

 

でも、何か始めないと終わらないしな、ということで、実家の自分の部屋の片付けから始めることにしました。

片づけきれるかどうかはわかりませんが、やらないよりはマシだろうし、いつかは終わるはずです。

昔使っていたパソコンの処分をしたところです。

次は、テレビを処分しようと思います。

私は、物が捨てられない性格なので、思い入れの少ない電化製品から片付ける作戦。

 

実家に住んでいるわけではないので、少しずつですが、私の部屋は片付いていくはずです。

 

一方、自分の住んでいる家。

やはり物が多い。

洋服と本が一番スペースをとっています。

着ない服ばかりと自覚していますが、なんだかもったいないんです。

だから、着倒す作戦。

おしゃれに気をつかわなくなってきたので、近所への外出なら20年前の洋服着てても気にならない。どうせ、他人は私の服装なんて大して気にしていないし。

靴下やTシャツなど着古して、最後はカットして掃除に使って捨てる。

こんなことしても全然片付いていかないけど、新しい服をほとんど買っていないから、少しずつ減っていくはず。。。

 

もっと大胆に捨てられればいいけど、それができないので、地道にやっていきます。

まだ、人生の後半に突入したばかりだし。

続けるのは得意なのかもしれないけれど

ようやく金曜日

明日から2日間休みだと思うと心底ホッとするが、土曜の朝、下手したら金曜夜に寝るときにはすでに月曜日を思って憂鬱になっている。

 

こんなに憂鬱になるくらいなら仕事辞めればいいじゃないかと思いながらも、次の仕事を探す気概もなく、ただ無気力に時間を浪費している。

 

せめて趣味くらい見つけなくてはとも思うけど、人間関係が億劫でしかたないので、一人でできることで何かやりたいと思うけど見つからない。

テニスや歌のスクールに行ったときは、曜日と時間が決まっていて、なおかつお金を払っているので、なんとか行かなきゃという気持ちで続いていたし、それなりに楽しんでいたと思う。

枠が決められていると続けられるけど、それはその枠の中だけ。

 

仕事もそうなのだ。

行く時間が決まっているので、なんとか続けているけど、それだけ。

 

惰性で続けることだけは得意だという自覚はある。

憂鬱なときは哲学的になる

昔から憂鬱なときは「人は何のために生きるのか」とか考え始めがちで、そんなことを書いた本だとか哲学に関する本だとかを読み始めたりしていたのですが、30代後半以降はそんな気力もなくなってきました。

 

今は。ただただ憂鬱になり、ダラダラしまくる。

なんの解決にもならないとはわかりつつも、何もする気力がわかず、風呂どころかシャワーを浴びる気にもならず、スマホを眺めながらゴロゴロするだけです。

 

年を重ねると憂鬱なときも気力も減少していくらしい。

10代や20代のときも憂鬱はイライラや怒りみたいなものと隣り合わせというか活動的な憂鬱だったかも。

それが年をとって、非活動的というか無気力+憂鬱になったな。

 

若いうちに憂鬱とのうまい付き合い方を学んでおくべきだった。

これから探すには気力が無さすぎる。

子どもを産む人生か産まない人生か

三十代後半は子どもを産むほうがいいのかなと悩んでいた。

結婚もしてないけど、早く結婚相手を見つけて子ども産まないと後悔するかなと。

でも、それは本気の心配ではなかったなと思う。

 

四十代に突入してからは、だんだん「産みたいとか育てたいとも思ってないのにそんな心配しても仕方ないな」と思えてきた。

 

そもそも中学生時代から出産・子育てという選択肢が自分の中になかった。

家庭科の授業で自分の人生設計を考えるという課題が出されたときも、”37歳くらいで結婚”と書いていた。それは、「37歳くらいでの結婚なら子どもは産まなくて済むだろう」という読みがあったからだった。

なんだかイやな中学生だ。

そのときは産むのってめちゃくちゃ痛いらしいと聞いたので、そんな思いはしたくないというのが一番の理由だったような気がする。

 

大学時代も「産む気もないのに生理がつらすぎる」などと愚痴ってばかりいた。

 

社会人になって、付き合っていた人から、”出産や子育てすることを前提とした結婚をする”か”別れる”かという選択を迫られたときも”別れる”を選んできた。

 

やっぱり出産するつもりなかったんだなと改めて今思う。

 

自分勝手な私にとっては、子育ては荷が重すぎるし、20年以上も面倒みるなんて無理だなと今は思っている。

子育てしてる人ほんとにえらいと思う。

 

かくして、結婚も出産も勢いが必要なのかもしれないけど、勢いがつかなかった私には「産まない」を選んだのである。